現場教育が機能不全に陥っているという声を、製造業や建設業、介護、調理現場など、さまざまな業界で耳に入るようになりました。
「やって見せて、やらせてみる」という従来のOJTが、もはや通用しない時代と言えるのではないでしょうか?背景にあるのは、熟練者の“経験に基づく感覚”が、言語化されずに個人に留まり、次世代に継承されにくくなっているという問題です。
若手社員は「なんとなく」の指導に戸惑い、ベテラン側も「見て覚えろ」では通じない現実に直面しています。
今、求められているのは、熟練者の頭の中にある「無意識の判断」「経験による直感」といった情報を“言葉にする”試みで感覚の言語化とその再現性の確保です。
本記事では、現場教育をアップデートするための視点として、「熟練者の感覚的な知恵の構造化」「技術伝承のボトルネック」「言語化と可視化による再現可能性」についてまとめました。

1.熟練者が持つ“感覚的な知恵”とは何か
1-1.手先と脳で覚えた“知恵”は言葉にしづらい
「このタイミングでボルトを緩めると、壊れない」、「微妙に左に傾けると音がよく響く」などの判断は、マニュアルには記されていない“勘どころ”です。
この「感覚的な知恵」は、長年の経験の中で自然と身についたものであり、ベテランほど「なぜそうするか」を明確に説明できないケースが多くあります。これを心理学では「アンコンシャス・コンピテンス(無意識的有能)」と呼びます。
つまり、熟練者は“できるけど説明できない”という状態にあるのです。これが、現場教育における最大の障壁であり、若手との間に生じる“伝承の断絶”を生み出しています。
1-2.「見て覚える」では継承できない時代
昭和の高度成長期においては、「見て盗め」「体で覚えろ」が美徳とされていました。しかし現代では、労働人口の減少・多様化・定着率の低下などの影響により、そのような教育方針が成立しにくくなっています。
例えば、寿司職人の修業は10年と言われてきましたが、今では半年で技術を習得させる学校も存在します。その背景には、職人の感覚的判断を言語化・映像化・デジタル化し、学習効率を高める工夫があります。
産業技術総合研究所の報告によると、溶接や組立てといった技能の習熟プロセスは、「力の入れ具合」「音の変化」「手の動きのリズム」といった身体感覚に深く依存しているとのことです。このような要素を明文化しないまま「背中で学べ」と指導しても、若手の理解は得られません。
さらに現代の若年層は、「感覚的なことほど理屈で理解したい」という傾向が強く、フィードバックのない教育に対して不安や不満を感じやすいというデータもあります。
こうした背景を踏まえると、熟練者の持つ“言葉にならない知恵”をいかにして構造化し、言語化し、再現可能な形で伝えるかが、現場教育の質を決定づけるカギと言えるでしょう。
2.現場教育に潜む伝承の壁
2-1.熟練者と新人の“認知のズレ”
教育がうまくいかない理由の一つに、熟練者と新人の“ものの見え方”の違いがあります。熟練者は、作業を始める前に「これぐらいでよい」「このくらい押せば十分」といった暗黙の判断を瞬時に下しています。一方、新人はそれが見えていない、もしくは判断の根拠が理解できていないため、表面的に模倣しても本質が掴めないのです。
たとえば、旋盤加工の現場では「刃を当てる角度」が数ミリ違うだけで仕上がりに差が出ることがあります。熟練者は材料の振動や音からその微妙なズレを即座に察知しますが、新人は何が正解なのか判断できず、失敗に終わりがちです。このような“見えている世界の違い”を前提に指導設計を行う必要があります。
“知覚の非対称性”を埋めるためには、感覚に頼る判断や操作を「なぜそのようにするのか」という因果関係とともに伝える必要があります。つまり、目の前の行動を“翻訳”する力が教育者側に求められるのです。
2-2.「経験を構造化する力」の不足
多くの現場教育では、「とにかく慣れろ」という精神論がまだ残っています。しかし、脳科学の視点からは、効率的な学習には「意味づけ」が欠かせません。認知科学では、新しい知識は既存の知識構造に“つながる形”で学ばれることで、定着しやすくなるとされています。
そのため、熟練者は自身の経験を単に“積み重ね”としてではなく、「どのタイミングで、なぜそう判断したのか」といった判断プロセスの構造化を意識し、明文化する必要があります。このプロセスを通じて初めて、経験が“教えられる知識”に変わるのです。
3.感覚の言語化が育成を変える
3-1.感覚を「比較と言語」で伝える
熟練者の感覚を言語化するには、比喩や対比を使って新人に“感覚の輪郭”を伝える方法が有効です。
たとえば「この締め具合は、ペットボトルのフタを開ける時くらいの力加減」といった説明は、具体的な行動に置き換えられているため、新人もイメージしやすくなります。
また、作業結果の良し悪しを「音」「色」「重さ」などの五感で捉える際も、「いい音がするとはどういう音か」「どのくらいの明るさか」といった定義づけがポイントです。曖昧な感覚に言葉を与えることで、教育の再現性が格段に高まります。
3-2.小さなフィードバックループの設計
言語化は一方通行では意味がありません。新人側が理解した内容を、自らの言葉で再表現できて初めて“伝わった”といえます。そのためには、以下のような小さなフィードバックループが不可欠です。
- 作業直後に「なぜその判断をしたか」を言語で振り返らせる
- 教える側は「それで良い理由」「改善点」をすぐに返す
ある製造現場では、新人が行った溶接作業に対し、ベテランが「どの音で、何を判断したか」を言語で返すようにしました。これにより、半年かかった習得工程が3カ月に短縮された事例もあります。感覚の再現は、教える側の意識次第で大きく変化するのです。
4.技術継承を支える可視化と科学
4-1.デジタルで補完する“感覚の記録”
近年では、ベテランの技能を映像やセンサーで可視化する技術が進化しています。たとえば日立製作所では、作業中の力加減や指の動きを数値化し、動作のブレを可視化できます。
また、理化学研究所などでは、習熟に伴う脳の変化をfMRIなどで解析し、「熟練とはどのような情報処理か」という観点から教育手法を探る研究も進んでいます。
これらの技術は、感覚的だった“匠の技”を第三者にも共有できる資産として残すことを可能にしており、将来的にはVRやAIとの連携によって学習プロセスの個別最適化が進むと期待されています。
5.まとめ
現場教育のあり方は、今まさに大きな転換点にあります。経験に裏打ちされた“感覚的な知恵”を言葉にし、構造化することは、教育を属人化から解放し、再現性ある学びを可能にします。
重要なのは、感覚を感覚のままにせず、「なぜその判断をするのか」を言語・映像・数値の形で明らかにし、新人との認知のギャップを埋めることです。これにより、教育は“伝える”から“育てる”へと進化します。
技能の継承とは、単なる作業手順の伝達ではなく、思考と判断のプロセスを共有する営みです。これからの現場教育は、「見て盗む」から「感じて理解する」へ。その起点にあるのが、“感覚の言語化”なのではないでしょうか。
参考文献
- 現場の知恵を活かすナレッジマネジメントとは|NTTデータ公式サイト
https://www.nttdata.com/jp/ja/knowledge/blog/2023/101800/ - 熟練技能の継承と可視化への挑戦|産業技術総合研究所
https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2014/pr20140917/pr20140917.html - 技術伝承における“見えない技”の可視化|日立製作所テクニカルレビュー
https://www.hitachihyoron.com/jp/archive/2015s/02.html - 現場教育の再構築―暗黙知の言語化と教育設計|JST-RISTEX
https://www.jst.go.jp/ristex/hite/theme/f03.html - 熟練技能の脳科学的理解|理化学研究所脳科学総合研究センター
https://www.brain.riken.jp/jp/ - 「アンコンシャス・コンピテンス」とは?|GLOBIS知見録
https://globis.jp/article/5470 - 職人の感覚をテクノロジーで再現する|日経クロステック
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00594/121600005/